
「曼陀羅とは精神の像である。これはラマ僧のイマジネーションの力によって形作ることができるのである。曼陀羅には一つとして同じものはなく、個々人によって異なるのだ。
ちまたの僧院や寺院に掲げられているような曼荼羅は大した意味を持たない。なぜなら、それらは外的な表現にすぎないからだ。
本当の曼陀羅というものは常に内的なイメージであり、それは心の平衡が失われている時や、ある考えがどうしても心に浮かばず経典にも見いだせないので自らそれを探し出さねばならないときに、自分の心の中の創造力によって、心の内に形作られてくるものだ。」
胎蔵界曼荼羅の中心には大日如来が描かれています。
キリスト教的な見方をすれば宇宙を支配する絶対神が中央に描かれているように見えるかもしれませんが、しかし、仏教では大日如来に絶対神的な意味は与えていません。
大日如来には「大いなる太陽」という意味があり、また、大日如来とはあらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がり、すなわち宇宙を集約したものであると説明されています。
中山康直さんのMANAKAリアリティにある「太陽とは心の反映である」という定義から言えば、大日如来とは私たち人間のことでもあります。そして、さらに大日如来は宇宙そのものでもあるのです。
したがって、曼荼羅の中央に描かれた大日如来は宇宙の中心を意図したものではなく、そもそも宇宙には中心が無く、曼荼羅を描く個々の人間の心がそれぞれに中心となり、まわりのものと無限に繋がっていくことを表しているのです。
以上の内容を簡単にまとめると、このようになります。
「心」=「宇宙」=「曼荼羅」=「私」
自分の心と他人の心が、そして自分と宇宙全体とが常に繋がっているということは、私たち一人一人が宇宙全体に対して「責任」を持たなければいけないということを意味しています。
自分の心の有り様が、他人や宇宙全体に影響を与えてしまうからです。
ルシファーとは、悪魔でもあり光の天使でもあると言います。私たち人間の心が何を求めているのかによって、同一の宇宙存在が悪魔にも天使にもなるのです。
したがって、宇宙はすべて自己責任の世界。

それによって、今や世界中の何十億という人々が時間と空間を越えて現実的に繋がりを持つことが可能になりました。
機械と電波を使って自分の意思を伝達するインターネットは、人類が霊的に成長してテレパシーで意思の伝達が出来るようになるまでの教育システムであると思います。
それを使いこなす人がどれだけ「責任」を持っているのかによって、インターネットが多くの人々を助けることもあれば、恐怖のどん底に落とすこともあるのです。
(やしろたかひろ)
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