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2012年11月17日

修道女と遊女 -女を生きなかった女性たち

以前に、あるスピリチュアルカウンセラーの方に視てもらった時に、私の様々な過去世(過去生)に一貫したテーマがあると言われました。それは「弱者救済」で、現世の私もそのテーマを持っているそうです。
また、別のスピリチュアルカウンセラーの方には、私の過去世にヨーロッパの修道女だったことがあると言われました。その時の私は修道女の中でもかなり高位に就いており、貧しい人々に対して熱心に施しをしていたのだそうです。
そしてその方には、私が書くコラムに深みがあるのは、そのような過去世の行いが影響しているのだと言われました。

弱者を救済していた高位の修道女。
なんだか自分の過去世はとても人格者だったように感じて悪い気はしなかったのですが、
・・・ところがある時、ふと気づいた事があります。


『修道者は、清貧、従順、貞潔という三つの誓願を生きることで、神に生活の全てを捧げます。
清貧とは、イエスの貧しさを生きることです。私有財産を持ちません。
従順とは、神のみ旨に従うこと。神のみ旨は会を通して示されるので、修道者は、その修道会の長上の意志に自分の意志をあわせます。
貞潔とは、独身生活を生きることです。すべての人々に自分を捧げるという積極的な選びと捉えるとわかりやすいと思います。』
(某キリスト教会のHPから転載)

あー、これは自分が今、終わらせなければならないと考えていた「宗教」の世界だ!

清貧⇒ 私有財産を持たないことは、自分がそれで納得していれば良いでしょう。
従順⇒ 自己の自由意志を否定するというのは、自分が人間であることを否定することに等しい。
貞潔⇒ 恋愛も結婚もしてはならないというのは、自分が女であることを否定することに等しい。

遊女と呼ばれていた昔の娼婦たちと同じではないか!
それは明らかに「女性性」と「女」が分離された世界です。

修道女も遊女も、生身の人間としての自由が許されなかった人たちです。
そして彼女らは、不特定多数の人々に対して自己の女性性を発動させることが求められた聖母でありセラピストたちなのですが、しかし、生身の女としての生き方を選ぶことができなかった人たちです。

※日本の遊女たちには、やがて役目を終えて結婚をする道もありましたが、劣悪な待遇にあり、多くは短命でもあってそのような事例は稀だったといいます。

キリスト教は、キリストの教えではありません。
私たちは皆、神様の分身です。人生とは、神様自身の体験のプロセスです。神社やお寺はそれを確認するためにあります。
しかし、キリスト教会では「神」と「人間」は別のものであると教え、人間が神に絶対服従するように指導します。実は、それは人類を支配しようとする人たちによるマインドコントロールなのです。
詭弁を使って、女が女として生きること、男が男として生きること、人間が人間として生きることを否定して神の奴隷になるように諭します。しかし、このようなことこそが神様に対する冒涜になるのです。

このような過去世をもった人は、別の世で人間としての「自由」を精一杯謳歌し、なおかつ女として、男としての「性」を精一杯謳歌する必要がある。それが、魂が次の段階へステップアップする条件。
現世では徹底的に人間を生きなければいけないということです。きちんと人間を生きる = グラウディング です。
私は、そのように思いました。


宗教ではない、人間教の時代へ
民主主義でも共産主義でもない、人間主義の時代へ
http://iyasaka.saloon.jp/article/60090937.html

(やしろたかひろ)

posted by takahiro at 11:02| Comment(0) | その他
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