これまでの人類社会は富や権力を奪い合う「テイク・アンド・テイク」型の人たちによって支配されてきました。これは、いずれ破滅してしまう社会のパターンです。
そのような破滅型の社会に危惧を抱いた人たちは、平等の原則に基づいた「ギブ・アンド・テイク」を志向しました。フェアトレードなどはこれに含まれるでしょう。
三次元に生きている私たちにとって、ギブ・アンド・テイクが最も現実的な人と人との関係のあり方かもしれません。
一方で、精神世界に関心をもつ人たちは、「ギブ・アンド・ギブ」を志向するようになりました。
私も自分がまだ精神世界オタクのレベルだった30代の頃、他人に対してこのギブ・アンド・ギブを奨励し、自分でもそれを実践することを心掛けながらサークル活動を主宰していたことがあります。
ところがその結末は意外なものでした。ギブ・アンド・ギブの奨励は、組織の分裂と活動の停止をもたらしてしまったのです。
ギブ・アンド・ギブを奨励すると、逆に、相手からの一方的な要求、つまりテイクを突きつけられることが増えしまうのです。そして要求が終わると、その相手は離れていきます。
それは「ありがとう、ではさようなら」の繰り返しの世界でした。テイクの切れ目が縁の切れ目となるのです。中には「もらってみたけど、役に立たなかったのでさようなら」というパターンもありました。
結局は、ギブ・アンド・ギブをやりすぎると、結果としてテイク・アンド・テイク型のダメ人間を増殖させてしまうだけになるということが判りました。
ギブ・アンド・ギブとは、何かをあげるときに物理的なお返しを一切考えません。ただ、受け取った人が喜ぶ顔を見ることが嬉しいから、また何かをしてあげるのです。
与えるということを繰り返していれば、自分の心が豊かになり、自ら求めなくても不思議とそれ以上のものが返ってくるのだ・・・という思想がその根底にあります。
素晴らしい思想のようにも思えます。
しかしよく考えてみてください。受け取った人が喜ぶ顔を見ることが嬉しいからする? 不思議とそれ以上のものが返ってくる?
・・・最初から見返りを求めていますよね。これって、ギブ・アンド・テイクじゃないでしょうか?
このようなギブ・アンド・キブ理論は、しばしばカルト宗教の洗脳手法に利用されてきました。
カルトは、自分の財産や自由な時間を捧げれば捧げるほど、自分のものを捨てれば捨てるほど、結果として自分が救われるという論法で人々を導きます。
しかしその本当の結末は、その人の依存心だけを助長し、友達や仕事や財産を失うことがあっても問題は何も解決しません。
結局、与えたり捧げたりという意識では人は自立することができないのです。
「無条件の愛」という言葉があります。
無条件の愛(無償の愛)とギブ・アンド・ギブとは、全く次元の異なるものであると私は考えています。
私たち生きとし生けるもののすべては、太陽が無ければ生きていけません。太陽は、一時も休まずに光と熱を私たちに供給してくれています。この太陽の営みが無条件の愛の象徴として語られることがあります。
はたして太陽は、自分から光や熱を受け取った人たちが喜ぶ顔を見ることが嬉しいからそれをやっているのでしょうか?
もっと身近なところでいうと、母が子を育てるプロセスは無条件の愛の体現です。
はたして母は、子が自分に育ててもらったことを喜び感謝する姿を将来見ることを期待して子育てをするのでしょうか?
仮に産まれた子が極端に体が弱くて成人するまで寿命がもたないということが判っていたとしても、多くの場合、母は最期の日までその子に愛を注ぐはずです。
「施し」というと、持たざる者に対して「めぐむ」ことであると考えている人が多いと思います。
しかし、仏教で言う「施」とは、恩にきせる心を離れて、共に喜ぶことが出来ること、ともに悲しむことが出来ることを言います。
したがって、本当の「施し」とは、人の痛みを自分の痛みとして感じとれた結果としてするものであり、「与えて喜んでくれたら嬉しい」という意識とは全然違うものです。
「無条件の愛」は、この「施」という言葉の意味に近く、「自分と相手の区別が無いこと」つまり「ひとつである」という意識に基づくものであると思います。
自分に対して「差し上げます」「喜んで貰ってくれて嬉しいです」とは言いませんよね。
ただし、私たちには肉体を纏い制約された三次元の世界で生きていくというワークショップが与えられており、それぞれに違ったカリキュラムがあり、個別の生活があります。
したがって、太陽のように生きとして生けるすべてのものに対して、行為として無条件の愛を体現することは難しいでしょう。その理由で、私たちの世界では親子・家族・恋人といった特別な関係が設定されており、制限された対象に対しての愛から始まります。
そして私たちの三次元ワークの目的とは、そのような制約された世界に存在する自己と向き合い、喜怒哀楽の体験を味わっていくことによって、すべてのものが「ひとつ」であったことを思い出していくプロセスを得ることなのではないかと思います。
そのような自己のワークが着実に進捗しているかどうかを知る指標は、自己の三次元的な課題、例えば仕事や経済や健康や人間関係といった課題が以前と比べて解消しているかどうかで測ることができると思います。
課題については、より高度なカリキュラムに取り組むことを意図してこの世に生まれてきた人ほど、より難しい課題が最初に与えられているでしょう。
言葉で説明するのは非常に難しく、ここで課題の解消と言ってしまうと、やはりギブ・アンド・テイクじゃないか!と誤解する人もいるかもしれませんね。
しかし、無条件の愛とは、与えることによって得られるといった直線的な概念を意味するものではありません。したがって、無条件の愛の中では「与えない」「突き放す」という選択も有効です。
また、ギブ・アンド・テイクやギブ・アンド・ギブは、相手との良好な関係を作るための手法としてあったり、また自分はそうありたいと思う目標としてあったり、どのように生きるかという人生哲学としてあったりすることが多いと思います。
それに対して無条件の愛とは、手法でもなく、目標とするものでもなく、人生哲学として持つものでもなく、ただ自然に湧いてくるインスピレーション的なものです。
(やしろたかひろ)
※関連記事
愛の目的は、相手と自分を「輝かせる」こと。
http://iyasaka.saloon.jp/article/95117864.html
2013年12月08日
無条件の愛とギブ・アンド・ギブとは別物です
posted by takahiro at 11:09| Comment(0)
| 無条件の愛
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