無関心と否定とは全く別のもので、無関心な人にはこのブログを読む動機すらありません。しかし、否定派であっても読みに来られている人というのは、何らかの興味・関心を持っているのだと思いますので、それは私にとってコミュニケーションをさせていただける相手です。
否定派の方は、少し焦点を変えてみてください。関心をご自身に対して向けていただきたいと思います。自分自身の「思考」に対してです。
あなたが抱いている、否定や嫌悪という「感情」や、間違いだという「判断」は、果たして物理的なものでしょうか?
誰でもが歴然として「ある」と知っている現象の中に、今の物理学では説明できない分野があります。それが、私たちの思考や感情という分野、すなわち精神世界です。
水やタンパク質やミネラルなどの物質で構成された人間という物体が、なぜ自ら意思や感情をもって自発的に判断をしたり行動をしたりするのでしょうか?
精神世界の話に対して強い否定派の人であっても、このように自分が子供の頃から見慣れてしまっている物事に対しては、その理論がよくわからなくてもオカルトだとは思わないものです。
生命の神秘

頭の良い唯物論の人たちは、生物が持つ思考や感情のスシステムについて「それは電気的な働きによるものだ」という言葉で解決しようとします。
しかし、そうであるならば、物体に電気を通せば、すべてのものが意思や感情を持つようになるはずです。
現代科学の中では遺伝子の存在が明らかになっていますが、遺伝子は人為的に造られたコンピューターチップとは全く違うものです。コンピューターは計算をすることはあっても、自発的な意思や感情を持っていません。
それでもなお精神活動のメカニズムを電気という言葉で解決しようとするならば、私たちはソーラーパネルを背負って生きているわけではないのでフリーエネルギーの存在を前提に議論しなければならないのですが、唯物論の人たちにとってフリーエネルギー自体がオカルトであり否定すべきものなので議論にもなりません。
人間の肉体は物理的なものですが、生命は唯物論では到底説明できないものです。
一般的に男性と比べて女性のほうがスピリチュアリズムに対して関心が強いのは、自分の体内から新たに別の生命が誕生するという生命の神秘現象を身近に体験できる機能を持っているからでしょう。
私たちが持っている明確な定義は、「物体には大きさがある」ということです。
物体には、必ず、寸法が存在します。
一方、思考や感情や意識といった精神世界には寸法がありません。
さて、では宇宙空間には寸法が存在するでしょうか?
もし宇宙空間が有限のものであると仮定するならば、どうしても解決できない矛盾が生じます。それは、私たちが子供の頃に誰でも一度は考えたことのある、宇宙の果てがどうなっているのか?という永遠の課題のことです。
未完成な宇宙論


私が不可解に感じているのは、「宇宙は膨張し続けている」という理論です。
膨張し続けているのは、宇宙の中で、私たちの科学で測定できる可能性のある部分のことだけのことを言っているにすぎないと思います。
それを言うのならば、膨張し続けている宇宙の「端っこ」があるわけで、端っこのその先がどうなっているかが説明されなければ消化不良に陥ってしまいます。
しかし、物理学でそれを説明することは不可能でしょう。
この難問は、「宇宙空間には、大きさが存在しない」と考えることによってしか解決しません。
ゆえに、私の結論は「宇宙とは、そのものが精神世界であり、生命である」ということです。
宇宙という精神世界、宇宙という大いなる意識の世界の中に、私たちが物体や物理的現象と認識しているあらゆるものが存在しているのです。
このことは、本当は精神と物質の区別すら無い、ということを意味します。
宇宙の実相


宇宙をこのように考えていくことによって、精神世界を否定することが出来なくなるはずです。
それでも否定派から離れられない人は、自分自身の存在すら受け入れていないことになってしまうのです。
宇宙の実相について正しく理解することができるようになると、自然現象も社会現象(人間関係、性の営み、生産活動、政治活動、経済活動に至るまで)も含めて、世の中のあらゆる出来事に対して私たちのとらえ方、取り組み方が変わってきます。
そして、世の中に存在する多くの宗教が真実を語っていないこと、また現代科学がいかに未発達なものであるかを実感することが出来るようになります。
(やしろたかひろ)
神の存在を解からないように否定しています。
神のために行っているかのごとく語っていますが、結局、自分のために語り、総てが悪のために利用され、地上界を地獄と化しているのです。
善なる思いと言葉と行動が一つとならなければ、神は働くことはできません。
生命体の本質については謎が多い。そこで、チベット仏教などの神智学の元となった我が国の兵庫県で発見された、それも紀元前10万年という世界最古の高度精神文明である”カタカムナ文献(神代文字)”で明らかにされている生命論に従って説明してみます。
生命の根源をなす”高我(ハイアーセルフ)”は、魂が転生(下生)した代々の”低我(現象我=エゴ)”の記憶の蓄積であるコーザル体(高位メンタル体)の中に宿り、部分魂である”低我”を生み出し統制する。この低我は、1メンタル(精神=マナス)体、2アストラル(感情・欲望=カルマ)体、3エーテル(肉体・本能)体からなる。
これらの体は独自の生命と意識を持ち、特にエーテル(肉体)体は代々の先祖からの記憶、経験をDNAを通して蓄積しているが、高我の統制が弱まると、先祖が持っていた昔の野蛮な時代の本能を思い出し先祖帰りする(執着)。
アストラル体は、様々な想念波動を起こさせ、変化、新奇、興奮などを好み、メンタル体は理性によって宇宙の諸現象から思考を展開させ、真理を獲得するための様々な経験を得ようとする。
そして、根源をなす高我はこれら生命活動の過程を統制し、3つの体との間で進化のための戦いを演じながら生命体全体の進化発展をリードすることとなる。例えば、アストラル体が感情や欲望をむき出しにして、一時的にせよ高我を追い出した時には”人生の悪化”が始まる。
その他、生命の正しい進化を妨げるものとしては、エーテル体の持つ先祖の記憶やアストラル体が持つ感情、欲望の他に、他人が発した悪想念がメンタル体に入り込んできて我々の精神体の中にある、相似した”我々の古い想念”と共振現象を起こし、同調する場合である。
2、生き霊の正体
例えば、特定の対象に対して、強い憎悪や恨みの念を発した場合である。この場合、想念は直接に相手に当たり、その周りに想念形態というマイナスのエネルギー・フィールドを形成し、もろもろの障害や不幸を引き起こす。
これがいわゆる”生き霊(悪霊)”だが、これはその想念を発した本人が恨みを忘れてしまった後にも残り、一つの独立した生命体として残って一人歩きしてしまう場合がある。また想念波動は、それを発した人間にも跳ね返り、いずれ思わぬ”穴埋め”を迫られることとなる場合もある。
また、想念は良くも悪くも同じ性質やエネルギーレベルの他人の想念を引き付ける性質を持っている。例えば、ある意図を持った扇動者の低次で強烈なエネルギーは、多数の共振波動層の人々の心にキャッチされ、共鳴者たちは更に強力な波動を形成し、集合意識として社会に影響を及ぼすこととなる。
このような結果を防ぐためには、自分の魂の進化に必要なものだけを選択し、それ以外のものは受け付けない強い覚悟が必要である。また、あらゆる事実を曇りのない澄み切った感覚で捉え、その本質を偏見なく見抜くことも肝要だ。
そして何よりも必要なことは、愛情などの高級な感情にもとづく高潔な精神波動を涵養し、敵意ある想念波攻撃から身を守ることである。鍛錬した人間の想念波動は、その強力な意志の力によって邪悪な念霊を瞬間的に消滅させることができるのである。
3、死んだらどうなる
ところで、生命は死んだらどうなるかは多くの興味を引くところであるが、低我(現象我)である肉体が死を迎えると、生命体の本質である魂は暫くの間、アストラル界(幽界)にとどまり、その後、下位天界であるメンタル界(霊界)に進む。そこは快適な環境で、憧れてきた全ての理想を作り出すことができる。
魂は自分の意思によって、これまでのあらゆる経験を”久遠の真理”として、あるいは”才能”として発達させ、隠れたる”神性”を身に付ける。
但し、転生時の現象界における特定の感情、概念、信念などの情念、思念などの執着を断ち切れない場合は、アストラル界で暫く足止めを食いさまようこととなる。これが”死”を受け入れられない、いわゆる”成仏できない”状態である。
一方、順当に経過期間を過ぎ、下位天界であるメンタル界を終えると、魂は低我の最後の遺物である精神体を脱ぎ捨て、本来の居場所である高位天界であるコーザル界(神界)に進み”高我”となる。
魂の成熟度による長い短いの差はあるが、一定の期間が経過すると、再度、現象界での経験を積みたい魂はアストラル界あるいはメンタル界から低我を作り、現象界へ下生(転生)する。
4、神(涅槃)への道
さて、魂それ自体は、元々は全宇宙を構成する生命素粒子の渦巻き運動エネルギーなのである。このエネルギーは主に”想念(理性)”とも言われ、感情(感受性)である”情念”と思考(知性)である”思念”から成り立ち、人間の大脳でいえば前者が右脳、後者が左脳の担当領域とされている。
まず、前者である情念のあり方から魂の進化を説明すると、人間が怒りや欲望、羨望、嫉妬などの情を起こすと、下位アストラル層はたちまち混乱を起こし、進化が停滞、最悪の場合、不幸な現実を引き寄せることとなる場合もある。
しかし、逆にここでこのような情念を抑制し、愛情や献身、同情などの”高級な感情”を出せば、より高位のメンタル界につながることができる。
次に、思念のあり方からは、物事を考える場合に、総合的に考えないで個々のものとして相互の脈絡を設けず、バラバラに考えると、魂はたちまち下位アストラル界につながることとなる。逆に、ここで様々な考え方をまとめ、その中から法則性や真理を見い出した時、魂は高位メンタル界につながる。
さらに魂は、高級な感情と総合性を獲得し、全宇宙が一体であり完全に満たされたものであるという普遍的な”高級想念”に立ち至った時、より高次のコーザル界(仏界=涅槃界)に到達するのである。
コーザル界では、意識する主体と客体の区別がなく、すべてが一体化(トータルセルフ)した中にあるため、研ぎ澄まされた感性である”神の直感”によってすべてを把握し、常に”最上の感覚”に満たされる。
これを時間軸で表すと、過去も未来も”今のこの瞬間”に凝縮されている状態で、従って過去にとらわれることなく、未来から自らを捉えることもできる。
つまり、生命は”永遠の芸術”なのであり、芸術とは、人間が永遠かつ無限の歓喜である審美性を、あらゆるときに、あらゆる人のために創造する生命エネルギーの昇華活動である。そしてこの生命活動は、すべての人類が同じレベルに到達するまで終わりのない営みとして続くのである。