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2014年09月17日

コンプレックスをバネにして頑張った行く末は?


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「コンプレックスをバネにして頑張る」
「悔しかった思いを力に変えて頑張る」
といった言葉があります。

ユングの定義によれば、コンプレックスとは、ある事柄と、本来無関係な感情とが結合された状態のことを言います。
何かをきっかけにして劣等感や屈辱感がまず産み出され、そのようなネガティブな感情が解消出来ないままになっていると、日常の精神生活の中にコンプレックスという感情が表面化してくるようになります。

メサイアコンプレックスというのがあるそうです。それは、無意識の中で実は自分が救われたいが為に、人を救おうとしたり、人のために何かをしようとするコンプレックスです。
それは「お前のためにやったんだぞ!」という押し付けになり、自分が救世主になるために、知らず知らずのうちにトラブルを作り出します。

これまでの社会は、人々のコンプレックスによって進歩発展してきたと言っても良いかもしれません。
しかし、そのような今までの世の中の進歩の仕方が良かったかどうかについては、熟考の余地があると思います。

「あの時の悔しい気持ちがあったから、自分は頑張って成功者に成れた」と言う人がいます。
そのように言う場合、成功者とは勝利者のことを言います。自分が勝利者になるためには、その比較対象となる敗北者が居る必要があります。
そもそも、劣等感や屈辱感というのは自分と他人とを比較することから生じるものですから、それをバネにして頑張るためには敗北者をイメージする必要があるのです。
そういうネガディブな感情を他人と戦うエネルギーに転嫁させて勝利者になるということは、もう一方で新たな敗北者を生み出し、新たな劣等感を生み出すことになります。
そのようなやり取りが増幅してくると、今の中東情勢のように終わりの見えない恨み合いになってしまうのです。 

そのようにして勝利者になったところで、実は、それは自分にとっての一時的な慰めにしかなりません。自分の内面に抱えている本質的な問題は解決していないので、人生のあらゆる場面でその問題は沸々とまた違う形で出てきてしまうのです。
したがって、コンプレックスは、社会に対して向けるのではなく、自分自身のワークとして受け止める必要があると思います。勝つべき相手は他人ではなく自分であるということです。
個人個人のワークですから、その解決策はそれぞれで違います。自分で見出すしかありません。
それを見出すための方法としては、自分の中から湧いてくる痛みや恐れというネガティブな意識から目をそらさずに、常にそれをじっと観察していることです。そうすると、他人と交わって摩擦を起こす体験の中などから気づきが起こります。

これからは、人間が持つコンプレックスによって社会が発展していくのではなく、どうすれば皆でもっと幸福になれるのかというアイデアを出し合うゲームを人々が楽しむことによって社会が発展していく時代にしていかなければなりません。
そうすると、力んで頑張らなくても、ゲームを楽しんでいるうちに、いつの間にか世の中から問題が無くなり、ユートピアが実現していくことでしょう。

(やしろたかひろ)


posted by takahiro at 20:11| Comment(0) | 人生の転換

2014年06月08日

整理することと片付けることの違いを知っていますか

「整理する」ことと「片付ける」ことの違いを知っていますか。
実は、国語辞典を引いてもどちらも同じように書いてあってよくわかりません。

「整理」という言葉の本来の意味を国語辞典を使って知るには、「整」と「理」という言葉を別々に引いてみたほうがよくわかります。

「整」: 乱れたものを正しくそろえる。
「理」: 物事の筋道。条理。道理。

つまり、「整理」とは、乱れた状態にあるものを見た目よくそろえること、あるいは機能的にきちんとそろえることを言います。
それに対して「片付け」とは、乱れた状態にあるものをどこかの場所に納めること、あるいは処分してしまうことを言います。


そして「片付け」にはより深い意味があって、それは片付けコンサルタントで「人生がときめく片づけの魔法」の著者・近藤麻理恵さんの説明に説得力があります。


 片づけとは、片を付けること。
 それは人生や過去にかたをつけるということです。


部屋がなかなか片付けられない人というのは、その人の心の中に、早く片をつけなければいけない何かの課題があるのかもしれません。
近藤麻理恵さんは、部屋の片付けをするときに、ひとつひとつのモノに対して感謝して「有り難う」「さよなら」と言いながら処分することをアドバイスしているのです。
思い入れのある物や思い出を大切にしながら、それをもう一度深く味わって、有り難う、と感謝して手放す。

昨年の秋に、この近藤さんの物語がテレビでドラマ化されて、それを観た時に私に気づきがもたらされました。
それは、自分は今、身近なテーマや自分自身の個人的なテーマにも取り組むべき段階に入ったということです。
社会全体を遠目からばかり見ていると、個別の事や自分自身の身近な事をないがしろにしがちになる。自分の足元にちらばっている不要になったガラクタを片付けていくことによって、その作業過程で思いがけない大切なものを見付けることもあるのではないか、と思ったのです。
そして私は、自宅の書棚や机の中、タンスや押し入れの中などの片付けを少しずつ始めました。

このことを昨年9月の記事で書いたのですが、今年の5月に、遂に私にとって一世一代の片付けの段階に入りました。
それは、自分の過去世から続いていたこだわりや執着を手放すということでした。
今は、思い入れのある人の洋服や持ち物を処分しているプロセスにあります。それらにはひとつひとつに思い出があって涙が止まりません。人生がときめく片付けの魔法を起こすには、踏ん切りが必要なのです。有り難う、さよなら・・・。

詳しい内容は、Facebookで公表(友達のみ)しています。読んでいただける方は友達申請をしてください。
https://www.facebook.com/yashiro.takahiro/posts/654169997996512

posted by takahiro at 11:50| Comment(0) | 人生の転換

2013年12月22日

パラレルワールド・引き寄せの法則…思い通りに現実を変える方法

私の個人的な感覚ですが、昨年の暮れと比べて、今年の暮れは精神的にゆったりと過ごせております。
昨年の後半は時間がどんどん短くなっていく感覚があり、忙しくてたまらなかったという印象があります。
昨年よりも精神的に余裕のあった今年は、私の現実的な生活の中でも良い変化を体験しました。
その変化は、私がこの記事を書いた後で起きました。
「人生がときめく片づけの魔法」がシンクロした!
  http://iyasaka.saloon.jp/article/76807214.html
身の回りの不要なものを片付けていったら、必要なものを引き寄せることができたということです。
不要なものを片付ければ片付けるほど意識がクリアになるので、物理的現実の中で引き寄せの法則が働きやすくなるものと思います。

さて、面白い掛け合いが行われている動画があります。
質問者が最後までバシャールの言うことが理解出来ずに、不満足な顔をして終了している光景が見られます。
おそらく、スピリチュアルにかなりフォーカスされている方でも、この動画での中でバシャールが言っている内容についてピンと来ない人が多いでしょう。
パラレルワールド(パラレルリアリティ)を理解することは、ふだん三次元の世界にどっぷり浸かって生活している私たちにとって、非常に困難なことだと思います。





初詣のシーズンがまた近づいてきました。
昨年の末に私は「初詣の“お願い”は“誓い”に変えてシンクロを起こそう!」という記事を書きました。
http://iyasaka.saloon.jp/article/61141829.html
この記事に対しては、中山康直さんから同意見であるというメッセージをいただいています。

人間は、一人一人が神様なので、それそれが望むリアリティ(物理的現実)を選択することができます。これがパラレルワールドです。
人と人とが傷つけ合う世界に自分の意識を合わせるならばそのようなリアリティが創造され、平和な世界に自分の意識を合わせるならばそのようなリアリティが創造されます。

例えば、初詣へ行って「お金が入りますように」と祈るような人は、自分にはお金が無いということに対して意識の焦点を合わせているので、なかなかお金が入ってこないでしょう。
「世界が平和になりますように」と祈る人は、平和ではない世界に意識の焦点を合わせているので、なかなか平和な現実の中では暮らせないでしょう。
だから、初詣に行ってすることは「祈り」や「お願い」よりも「誓い」のほうが良いのです。

私は、「お百度参り」(おひゃくどまいり)には効果があると考えています。お百度参りとは、同一の社寺に百度参拝することです。
このような場合には、やっていることがたとえ祈りであったとしたとしても、百度も続けて参拝するというのは、もはや他者依存の世界ではなくなり、その人の執念の世界になります。
ですから、神社仏閣に居る神仏の力というよりも、本人の念力によって現実が変わってしまう可能性が高まるでしょう。

中には、自分の意識が変わっても、変わらないと感じるリアリティもあります。時間を置いて時期が来れば変わるリアリティーもあります。
実はそれも、自分自身が望んだ結果として創造されているリアリティなのです。
そのようなリアリティは、自分がこの世に生まれる前に自分に科した三次元ワークのプログラムに該当するものかもしれません。
とくに自分が生まれた場所や両親、生まれ付きの身体的特性といったものは、そのようなプログラムの一部に含まれるでしょう。

上記バシャールの動画の中でイルミナティのことが取り上げられていますが、イルミナティは私たちの癒されていない意識が創造したものです。
大事なことは、イルミナティを悪と見做して排除するのではなく、それを癒すことです。

(やしろたかひろ)

関連記事
宇宙は巨大なホログラム。意識が”現実”を創っていた!
http://iyasaka.saloon.jp/article/82683244.html

PR:中山康直さんが語る、宇宙生命体manaka情報が収録されたDVDが販売されています。
https://www.ooasa.jp/school/index.php?dvd

posted by takahiro at 16:26| Comment(0) | 人生の転換

2013年11月06日

手放した時に、新たに始まる

自分の日記に、「必要が無くなったものを手放す」ということについて書いた今日、
あるFacebook友達の、「引退しました」という書き出しのメッセージが目に留まって、僕は感動した。

あなたはいつか、世間の多くの人々の目から見て、決してカッコ良くない世界に飛び込んだ。
最初は、死ぬような思いで、その世界に馴染もうとしたに違いない。
自分がこの世に生まれてきた理由を知るために、そして心の傷を手放すために、
あなたにとって、その世界は「必要」だった。

誰に何を言われようと、あなたはその世界と真摯に向き合った。
誰に何を言われようと、あなたはその世界をとことん味わった。
そうしたら、自分が、多くの人々から愛されるようになった。

そして、愛する者が出来た時、あなたにとって、もう、その世界は必要が無くなった。
人生の中でいくつもある階段のうち、その大きなひとつを見事に登り切ったのだ。

あなたは人々に、自分の手で「掴む」ことと「手放す」ことの大切さを伝え、
最初はカッコ悪く見えたとしても、自分の物語を創造し、その物語を生きることは、
最高にカッコいいことなのだということを、身をもって証明した。

僕は、あなたの新たな始まりの日を祝福する。

(やしろたかひろ)

posted by takahiro at 23:35| Comment(0) | 人生の転換

2013年11月03日

「三次元の王」

社会活動をしている時の私の働きのひとつは「伝達者」。私は人類のパラダイムシフト期に大切な情報を発信するお役目を志願して今回生まれてきていることを、複数の霊能者の方から告知されています。
ただ、単にパラダイムシフトに関するメッセージの伝達というだけならば、現在多数のチャネラーと呼ばれる人たちなどによって素晴らしい活動が行われていますし、また私の場合には自分がチャネラーであるとは自覚しておりません。

しかし私は最近になって、自分は他の多くの伝達者たちとは質が違うことを自覚しました。ある人が私のことを「三次元の王」と呼び、その時に気づいたのです。
それはどういうことかというと、私の場合には、五次元と三次元とをつなぐ働きを伴っていることを意味しています。
例えば、中山康直さんのような人が五次元レベルの話をしたときに、それを三次元レベルの話に落とし込んで人々にわかりやすく解説するのが私の役目です。
ここで私が言う「三次元レベル」とは、今の世の中の一般的な人々が自分の意識や知識で理解できるレベルという意味です。

これが出来るためには、自分が三次元を知り尽くしている必要があります。
私は主にこれまでの職業経験として、社会の異分野・異業種の多種多様な世界を見て体験して知っています。
マンモスショッピングセンターで売場のリーダーをしたり、不動産会社で大規模宅地開発をしたり、出版社で編集者をしたり、医療法人の関連会社でイベント企画をしたり、また派遣労働者を管理する仕事も経験しましたし、さらに自分自身が日雇い派遣労働使者だった体験もあります。私のサラリーマン時代の最終職種は、マーケティング系の経営コンサルタントでした。
そして今はネット販売をして、麻フンドシから有機肥料までを取り扱っています。
ひとつの職種に長く留まれなかったことは私が社会不適合者だったことの証なのですが、しかし普通は異業種・異職種間でのこのような転職、しかも専門職や管理職での転職というのは出来ません。自分にはそれが出来る才能があったということであり、またそのような様々な仕事を体験しなければならない理由もあったということだと思います。

さらに私には、潜在的に持っている過去世体験があります。
以前にある霊能者の方から、「あなたは私が視た人の中で最も転生回数が多い」と言われました。過去世では大富豪だったこともあれば迫害された牧師だったこともあり、地位や立場の違うあらゆる体験を持っており、それが今世に生かされているらしいのです。
私のグループソウルはよぼと人間体験を繰り返すことが好きなのでしょう。それだけに、私は「三次元の王」になることが出来たのです。
※「王」は、この世をよく知っているという意味の比喩ですので誤解なきよう。
また、これも同じ人に言われたのですが、私には現世を含めてほとんどの過去世に共通しているテーマがあり、それは「弱者救済」と「権力(力の強い者)に迎合しない」ことらしいです。なるほど、自分がサラリーマンには向いていなかった理由がわかりました。

最終的には、自分のことを「三次元の王」と呼んだ人との出会いによって私はヒッピー思想を肯定できるようになり、スピリチュアリティーに関する理解も進みました。

すなわち今の私は、五次元を語るスピリチュアル界に満を持して派遣された「三次元の王」です。
私たちの肉眼に見える世界とスピリチュアリティとを統合し、それらが別々存在しているものではないことを証明することが私のお役目です。

新興宗教のようなものをスピリチュアルだと勘違いされている方が非常に多いです。
そういう宗教の教祖様たちは統合失調症の場合が多いと思うのですが、それはある意味で私たちの知らないどこか別次元の世界にアクセスしている人なのかもしれません。しかし、一般社会や庶民の生活と調和していない言動をするものは正しいスピリチュアリティとは言えないのです。
このことは主張している理論が正しいとか正しくないとかいう問題とは無関係です。個別の理論や理念はどうであれ、スピリチュアリティの基本は「調和」であって、そこに「つながり」はあっても「分断」は無いということです。
地域社会とのつながりを絶っているエコビレッジ、地域社会との調和を乱して行われる平和イベント、・・・こういうものは宗教同様のものです。
脱原発運動にしても、大麻解放運動にしても、人権運動にしても何でもそうなのですが、それに携わる人間が健全な意識、正しいスピリチュアリティをもっていないと、その運動が別な社会問題を生み出してしまうということもあるのです。


関連外部記事
「ボクのおとうさんは、ボランティアというやつに殺されました。」
http://jiburi.com/seigi/?fb_action_ids=465041763611665&fb_action_types=og.likes&fb_source=other_multiline&action_object_map=%7B%22465041763611665%22%3A538122512922907%7D&action_type_map=%7B%22465041763611665%22%3A%22og.likes%22%7D&action_ref_map=%5B%5D
幸せとは他人に押し付けられるものではなくその人毎に違うものです。
ボランティアも正しいスピリチュアリティをもって行わなければ相手を不幸にしてしまうことがあります。

(やしろたかひろ)

タグ:調和と循環
posted by takahiro at 21:45| Comment(0) | 人生の転換

2013年09月28日

「人生がときめく片づけの魔法」がシンクロした!

25日の晩のことですが、私はある人とのメールのやり取りの中で、「欲張り過ぎて多くのものを抱え過ぎると、自分が大変になるから、少し整理したほうがいいですよ」というアドバイスをしました。

ところが・・・、、
他人に対して何気に発した自分のこの言葉が、まさか、あとで自分自身の気づきに繋がるとは、その時には思いも付きませんでした。

実は私、先週の後半から25日の昼頃まで、軽い不定愁訴に襲われていました。
年のせいか? 遅く来た夏バテなのか?…などと考えいてたのですが、その後、あるチャネラーが発信しているメッセージが私の眼にとまったのです。
そこには、先週から浄化の大波が来ていて、そのために不快な症状という形で肉体に変化が起きた人がいること、そして25日にはその大波が収まり、多くの漂流物(ゴミやガラクタ)の中に宝石が出現している状態にあること、が告げられていたのです。

私がこのメッセージを眼にしたのは、26日の晩です。
私の心身に起きた不快な症状の原因がこれであるとしたら、症状が収まった今は、ゴミやガラクタの中に隠れている宝石を見つけるプロセスに入ったことを意味しています。これから、ガラクタの整理をしなければなりません。


そして昨晩(27日)、日テレのドラマ「人生がときめく片づけの魔法」を観ました。
このドラマは、片づけコンサルタントの近藤麻理恵さんという、実在する人をモデルに制作されたフィクションなのですが、ツイッターにはこのドラマを見た視聴者から、多くの感動のコメントが書き込まれています。

『ラストシーンでは涙を抑えることができなかった。こころが磨かれた。』
『「片づけは人生を変えるんです。片づけは人生や過去にかたをつけるということです。」なぜか涙が止まらんかった。私は、過去に囚われたままなんかな。』
『片付けの魔法 …片付けるとは過去に片を付ける、片付けは人生を変える、…いい言葉だ。ジンと来た。思い入れのある物や思い出を大切にしない事や総てを捨てるのではなく、心の整理をつけ、残す物残さない物を分ける事なのではないか?と思った』
『片づけとは、片を付けることらしい …自分も、そういう時期が来ているのかもしれない。トキメク人生を手に入れたいと思う…、いつやるか? 今でしょ!』
『有り難う。感謝してさよなら。私にもできるかな?あっと言う間に終わっちゃいましたね。ちょっと泣いちゃいました。父と母の洋服や持ち物をなかなか手放す気持ちになれなかったのですが、踏ん切りつきました!』


ドラマの主人公が発した「片づけは自分の過去に片をつけるということです」という言葉を聞いた時に、私はハッと思ったのです。
このドラマの内容は、私自身がクリアすべき課題をも示唆していました。

私は、これまでしばらくの期間は、スピリチュアルという大きな括りで、世の中の全体、地球全体を変えることを目標にした啓蒙活動をしてきました。
悪法を変える運動に参加したのも、その括りの中でのことです。
そのような大きな括りで活動することも必要ですが、しかし、それはややもすれば「森を見て木を見ず」の状態に陥る可能性もあります。
私は今、もっと身近なテーマや、さらに自分自身の個人的なテーマにも取り組むべき段階に入ったのではないか、と感じはじめてきたところです。

これが、私の意識に変化をもたらした、25日、26日、27日と、三夜に連続して起きたエピソードです。

部屋がなかなか片付けられない人。それはあなたの心の中に、早く片をつけなければいけない何かの課題があるのかもしれませんよ。

(やしろたかひろ)


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posted by takahiro at 14:08| Comment(0) | 人生の転換

2012年12月31日

初詣の「お願い」は「誓い」に変えてシンクロを起こそう!

2013年の正月も、多数の方が初詣に行かれると思います。
そこで、大晦日の今日は「祈願」という言葉の意味について考えてみたいと思います。

以下は、2004年の秋に、私のインスピレーションの中に飛び込んで来た言葉です。


  祈願とは、神の前で誓いを立てる事をいう。

  あなたが病気だったと仮定しよう。
  あなたは、自分の病が早く平癒するように、
  規則正しい生活をすること、
  病に負けない強い心を持つことを心掛け、
  滋養をとり、養生して努力する。

  あなたの家庭に不和があったと仮定しよう。
  あなたは、利己主義を捨て、常に相手の立場に立って物事を考え、
  家族が円満に暮らせるように努力する。

  このように、自己が抱えている課題と正面から向き合い、
  解決のために自ら努力することを神に誓い、
  以って神の力添えを求める儀式が“祈願”である。



世界中の多くの宗教では、礼拝施設へ行くと、中心に崇拝すべき神様の像が置いてあります。
しかし、古神道の神社には、真ん中に鏡が置いてあります。それは、神社にお参りに来た人、その一人ひとりを映し出す鏡です。
すなわち、古神道では中心に自分自身を置くのです。「自分教」です。

なぜならば、人間は一人ひとりが大いなる神の分身なのであって、すべての問題を解決させる力が最初から自分の中に備わっているからです。
ですから、神様の分身たる自分を信じることなく、別の何者かに頼りすがりをすることは、神様に対する冒涜になってしまいます。
神社へ言ったら、まず自分自身に誓うこと。自分を信じて自ら行動を起こす人には、私たちの大本である大いなる神(自然神)が、それに力添えをしてくれることはあるでしょう。

そこで、今まで神社へ行って、「おすがり」や「お願い」をしていた人は、今度は「誓い」に変えてみませんか。
個人レベルの誓いも大切ですが、今は人類としての誓いも大切な時です。人類が抱えている問題は、人類が自分たちの力で解決できる問題です。
「競争原理の中で人と人とが傷つけ合ってきた社会を終了させて、人類みんなで弥栄の世を創っていきます。」という誓いを立てても良い時期なのではないかと思います。

「願い」とは少しニュアンスの違う「祈り」という言葉には優しいイメージがありますが、やはり他力に頼ろうとする意識の強い言葉です。
集合意識の大きな波動、シンクロニシティの大きな渦を創るためにも、よりパワフルな「誓い」が必要な時です。
1月1日から節分の日までは、各々の氏神様へ行って平和を誓うことを国民的行事としましょう。

(やしろたかひろ)


posted by takahiro at 13:40| Comment(0) | 人生の転換