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2012年02月20日

それでも死刑反対

山口県光市で幼い娘とその母親を殺害した罪に問われていた当時18歳の元少年について、最高裁判決で死刑が確定しました。
被害者側に立って考えれば非常に気の毒な事件であり、国民世論の大半は死刑判決を支持していることと思います。
多くの人からの批判を覚悟で言いますが、それでも私は死刑廃止論者です。終身刑が必要。

人が人を殺すということの背景には、余程のことがあるに違いありません。それは本人でなければわからないことです。
この事件の加害者である元少年Fは、両親から繰り返し暴力を受け、更に12歳のときに自分の母親が首をつって自殺する現場を目撃したと言います。(その前に母親の自殺を一度止めているので、母親の自殺現場を二度見たも同然。)
事件の3ヶ月前には、実母の自殺の原因になった継母と実父の間に子供が生まれています。
子供は無防備です。どんな酷い親であったとしても、自分の意思ではそこから逃げることが出来ません。自分が生きていくために、その親に育ててもらうしかないのです。

もし自分が子供時代に少年Fと同じ体験をしていたとしたら、自己中心的ではない、絶対に人を殺さない大人に成長していただろうか?・・・と考えると、私は全く自信がありません。
もしそのような体験をしていたら、私は一生精神障害者として生きていたのではないかと思います。

もし犬の調教師が、飼い犬に人を殺すように躾けをしてそれが実行されたとしたら、飼い主が逮捕されるでしょう。
人間の場合も同様に、殺人に限らずどのような犯罪であったとしても、正当に裁くのであれば犯罪を犯した本人だけではなく、その人が大人になるまでの成長過程で精神的に大きな影響を与えた人たち、場合によっては地域社会全体が裁かれなければならないと思います。
そういう意味で、人が人を裁くということは非常に難しい事であるのです。

やしろたかひろ


タグ:人権と福祉
posted by takahiro at 23:47| Comment(2) | 現代社会を考える

2012年02月15日

「脱法ハーブ」というおかしな造語

最近、「脱法ハーブ」という言葉を聞きます。
興奮や幻覚作用がある化学物質を合成し植物片に噴霧したものを指しているらしいですが、そうであれば「ハーブ」と呼ぶのはおかしい。
ハーブとは「薬効のある植物の総称」であり、広義ではゴマやワサビ、玉ねぎなどもハーブの一種。
化学物質など植物以外のものを混入させてしまったらハーブとは呼びません。「痲薬」と呼ぶのが適当でしょう。
大麻草もハーブの一種です。
コカインの原料の一部であるコカ(コカノキ)という植物の葉はハーブです。しかし、コカの葉を化学処理したコカインは痲薬でありハーブではありません。
高地に住む人が多い南米では、コカの葉が高山病を予防すると言われ、コカ茶にして日常的に飲まれています。
コカの産地であるボリビアをアメリカは痲薬生産国であると非難していますが、コカを化学処理して痲薬にする方法を発明したのはアメリカです。

▼麻(大麻)は私たちの生活を変える優しい植物です。
http://www.ooasa.jp/know/

タグ:大麻と日本
posted by takahiro at 10:04| Comment(2) | 現代社会を考える

2011年11月13日

日本人の本質に戻ろう

私は以前から、日本人と欧米人の違いを「稲作社会と狩猟社会」という視点で考察してきました。

稲作社会が狩猟社会と異なっていた点は、複数の世帯が対等な立場で協力し合いながら作業を行うことによって、はじめて個々にとって十分な食糧が得られたということです。
もしこのような社会に弱肉強食的な男性原理がもちこまれて、協調性の無い人や、他人を蹴落とそうとするような人が増えたら、たちまち社会全体が食糧危機に陥ってしまいます。
一方で、凶暴な動物と戦わなければならない狩猟社会は戦術に長けたリーダーの存在を必要とする社会でした。
http://www.yaei-sakura.net/column/taka_inasaku.html
http://www.yaei-sakura.net/ascension/index.php?feminity

また、日本は四方が海に囲まれた国家だったために、国土に関して欧米とは違う価値観をもっています。
http://www.yaei-sakura.net/ascension/index.php?ground

本日の武田邦彦教授のコラム「農耕民族・国家が近代国家になるためには」に、これと非常に関連した意見が書かれていました。
そして、「今回の東北大震災、福島原発事故の深層に思いをはせると、「農耕民族国家」が「個人単位の狩猟民族」が創り出した現代科学を咀嚼できていなかったということが最大の原因だった」とおっしゃっています。
http://takedanet.com/2011/11/01_66e9.html

日本がこれから発展していく道は、欧米の影響から精神的に自立して、日本人の本質に戻ることではないかと思います。

posted by takahiro at 15:44| Comment(1) | 現代社会を考える

2011年11月09日

TPPの標的は日本…中丸薫氏のレポートより

「TPPの標的は日本である。日本が開国すれば、欧米や中国の巨​大資本は日本の森林や土地、企業などを合法的に買いあさることが​できる。
その上、金融・エネルギー・放送業界等に参入でき、学校​や病院を投資対象にできる。
日本の近海に埋蔵されているメタンハ​イドレートとレアメタルの採掘権もTPPの対象であり、外資が独​占販売することも可能なのだ。」

(中丸 薫 氏のレポートより)



posted by takahiro at 21:00| Comment(1) | 現代社会を考える

2011年05月05日

「までい」の里、福島県飯館村の悲劇

先日、いわき市の避難所を訪れ、炊き出しを行った女優・秋吉久美子さんは6歳から18歳まで福島県に住んでいたそうです。
実は私も同じく、6歳から18歳まで福島県に住んでおりました。

本日(5月5日)付朝日新聞の天声人語に、「までい」という東北地方の方言のことが、以下のような内容で記述されています。(※一部編集してあります)

******************************

「までい」とは、「真手(まで)」という古語が起源で、手間ひま惜しまず、丁寧に、心をこめて、といった意味合いで使われる方言である。

福島県飯館村役場で譲り受けた「までいの力」という一冊の本で、その言葉を知った。

スローライフの考え方が広がり出したころ、飯館村の村長はじめ村人は、「それって、“までい”のことじゃないか」と思い、以来「までい」を合言葉に村づくりをしてきた、という話が綴られている本である。

ところが、その本の刊行直前に震災が起き、原発事故による計画避難で、全村民が村を離れなければならなくなった!

「ここには2011年3月11日午後2時46分以前の美しい飯館村の姿があります」
「までいの力」の中表紙に急きょ刷られた一文に怒りと悲しみがこもる。

******************************

私が住んでいたのは、飯館村からは30キロほど離れた町で、そこでは「までい」ではなく「まで」と言われていたと記憶しています。
頻繁に使われていたのは料理の時だったように思います。丁寧に、ゆっくりと、時間をかけて掻き混ぜることを、「までに掻き混ぜて」とよく言っていました。
それを強調して言う時は「までーに、掻き混ぜて」と伸ばして言ったりすることもあります。こっちのほうが「までい」に近いと思います。
単純に「よく掻き混ぜて」と言ってしまうのと比べて、とても深みと幅のある言葉だと思います。

東北の人は閉鎖的で保守的だと言われますが、しかしそれは、都会的なものの考え方、都会的な生き方から距離を置いて、地に足をつけて生活をしてきたことの裏返しです。
その「までい」の里、飯館村の人々が、皮肉にも原子力発電所という近代文明の象徴によって村を追い出される。


天声人語の最後には、こう書き添えてありました。
「原発の受益者は都会人なのを忘れることなく」

私が小学生の時に、学校の見学学習旅行で行かされたところが、福島第一原子力発電所でした。
その時のエピソードで、私は、今でもはっきりと覚えていることがあります。
それは、私たちに施設の説明をしてくれた東電職員の方が、福島県の有名な川の名前を知らなかったことです。

(やしろたかひろ)

関連記事
*都知事選挙、福島県民が東京都民の皆様に問います!
http://iyasaka.saloon.jp/article/86079165.html

posted by takahiro at 22:53| Comment(0) | 現代社会を考える

2011年03月19日

原発事故に関するウワサ

SNSや掲示板、メールなどの媒体を利用して、不特定多数を相手にして真偽不明の情報をもとに、あるいは憶測でメッセージを発信し、大衆の不安を煽る行為が見られます。
そのようなことを書くことによって何か具体的に物事が解決するのならば良いのですが、しかし、ほとんどは、悪意で人々のネガティブな想念を掻き立てて意図的にハルマゲドンを起こそうとした某カルト教団のやり方と何ら変わりがないように思います。

例えば、このようなメッセージを発信している人がいます。
「政府は、原子力安全・保安院の職員らを福島第1原発から およそ5キロのところにあるオフサイトセンターで待機させていたが、15日午前、第1原発からおよそ50キロ離れた郡山市まで退避させたらしい。
一般住民に避難や屋内退避を指示しているのは30キロ圏内なのに、なぜ自分たちは50キロの所まで逃げたのか。おかしいよね。
実は、政府と東電は事故の本当の全貌を公表せず隠蔽していたのだ。本当は、安全避難距離が250キロの事故だったらしい。このひどい隠蔽体質・・・」


現地の地図を広げながら、冷静になってよく考えてください。
福島県の海岸線沿いの地域はほとんど、津波被害のあった被災地です。
そして、原発から内陸の方向へ7キロも入れば今度は阿武隈山系に突き当り、森林だらけの山しかありません。その奥へ行っても、ずっと農村部(田村地区)が続きます。
内陸部へ50キロ入って、ようやく、職員の宿泊場所の確保が容易である都市部(郡山市)にたどりつくのです。
事故対策のために派遣されている原子力安全・保安院の職員らを、一般避難民と一緒にそのへんの公民館や小学校で共同生活させるわけにはいかないでしょう。
かといって、景色の美しい農村部にある民宿や観光旅館で宿泊をさせたら、今度は、こんな時に保養をしてるのかと国民の怒りを買うでしょう。
郡山市は陸上自衛隊の駐屯地もありますし、一般人の避難所もある街です。

また、原子力安全・保安院の職員が退避したのは50キロの地点なのに、なぜ250キロという数字が一緒に出てくるのか? なんだか矛盾していますね。
安全避難距離が250キロならば、30キロも50キロも大差がないのでは?
15日の夜に、現場から約20キロの地点で240〜330マイクロシーベルトという値が一時的に出て、この時に米国が大騒ぎしましたが、それ以降本日現在までの各地の放射線濃度の推移を見る限り、原発の放射線漏れについてはこれ以上深刻な事態になりつつあるようには思えません。
結果良ければすべて良し、という訳では決してありませんが、もしこれまでの過程の中で何らかの隠蔽が実際にあったとしても、それは政府に悪意があったというわけではなく、国家の責任として、国民の安全を最大限に考慮した選択であったに違いありません。
仮に安全避難距離が250キロといった事態が起きたとして、交通が麻痺している中で、首都圏および東北地方の大量の住民の避難誘導方法について具体的な策の無い段階で、即座にありのままの事実を公表したらどうなりますか。
何千万人もの人々がパニックが起こしたら、どれだけの事故や犯罪が発生するか。原発事故の直接の被害とは無関係に、どれだけの死者が出るか。その予想規模は計り知れないものがあります。

以前の関東大震災の時には、「朝鮮人が暴徒化して、井戸に毒を入れ、放火して回っている」というデマが広まったそうです。
ともかくも、このような災害時に性悪説を前提としたものの考え方をすることは、人々の僅かな望みをも奪ってしまう可能性があるのです。

地震大国である日本に生まれてしまった私たちは、ある程度のことは覚悟して、日頃から自分で防衛策を講じておくしかないのです。
原発に近い地域にお住まいの方などで放射線対策を考えるならば、昆布でダシを取った味噌汁を毎日飲むようにすると良いでしょう。

「放射線対策に味噌汁」
http://iyasaka.saloon.jp/article/43851259.html


やしろたかひろ

※今月の中山弥栄塾の延期に伴い、21日配信のメールマガジンでは中山康直 塾長からのメッセージの掲載があります。


posted by takahiro at 18:12| Comment(1) | 現代社会を考える

2011年02月16日

「固有の領土」という概念について

いつまで経っても決着がつきそうにもないのが領土問題。
先日は尖閣問題についてコメントしましたが、今回は北方領土について。

ロシアの主張は、「日本は第二次世界大戦の結果を受け入れよ」です。

私はロシアの肩を持つわけではありませんが、たしかに、戦争とはそういうものです。
人類は太古の昔から、土地の奪い合いを動機として、数えきれないほどの戦争、戦いを繰り返してきました。
戦って、殺し合って、勝った方がその土地を自分の所有とする権利を得る。それが人類の常識でした。
ロシアは、そういう常識を日本は受け入れよ、と主張してきているのです。

「固有の領土」という概念は、大陸にはありません。
ヨーロッパなどは、幾多の戦争の繰り返しの歴史の中で常に国境線が変わってきましたから、各国がそれぞれ「固有の領土」なんていう概念を持ち出したら、ぐちゃぐちゃになってしまうのです。
もし、ローマ帝国の時代に築かれた国境線が正当な国境だ、なんて言い出すイタリア人政治家がいたら、たちまち国内外から袋叩きに遭うでしょう。

私は何度もいいますが、土地、つまり地球は誰のものでもない。
誰の「固有の領土」もない。
太陽の光や空気と同様に、土地は人間の所有物ではない。
人間は、天からの授かりものである土地をみんなで大切に管理し、みんなが幸せになるようにこれを使用させていただく。
八百万の神とボーダーレスの意識が定着しない限りは、この世から戦争はなくならないでしょう。

タグ:戦争と平和
posted by takahiro at 14:11| Comment(0) | 現代社会を考える