資本主義社会は、ピラミッド状の構造によって成り立っています。
ピラミッドの底辺、つまり貧困層が居ないと成り立たない。
全員の生活が楽になってしまったら、大儲け出来る人は居なくなります。
底辺が居るから、ピラミッドの上層の人たちは儲かる。
ビジネスモデル自体がピラミッド状になっているネットワークビジネス(MLM)は、資本主義社会の象徴のようなものです。
私のような活動をしていると、お誘いが非常に多いのです。
ネットワークビジネス・ピラミッドの底辺は、儲かっていない販売者層です。
その底辺を大きくすればするほど、上層は儲かる。
ネットワークビジネスでは、上下関係がはっきりしています。
商品を買った人よりも、売った人の人のほうが偉い。
顧客を紹介した人よりも、紹介を受けた人のほうが偉い。
一般のビジネスと立場が逆転しているようにも見えますが、実は、この人間関係こそが資本主義社会の本質です。
他人の世話をする人よりも、他人の世話を受けてもいいから、より多くのお金を稼いだ人のほうが立場が上になるのが資本主義なのです。
このような社会でのお金の流れは、血が通っていない。
これからは、感謝の気持ちで経済が動いていく社会にしていかなければなりません。
物を作ってくれた人に対する感謝の気持ち
お客様を紹介してくれた人に対する感謝の気持ち
自分を感動させてくれた人に対する感謝の気持ち
自分がして欲しいことをしてくれた人に対する「感謝の気持ち」でお金が流れていく社会になったら、
きっと貧富の差も、戦争もなくなるでしょう。
2010年04月29日
MLMは資本主義の象徴
posted by takahiro at 09:35| Comment(2)
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2010年04月22日
経済力と想像(創造)力の反比例
上海万博で相次ぐ盗作疑惑。
今の中国は経済力が向上した代わりに、創作力が無くなってきているのではないでしょうか。
戦後の日本にも同じような時代がありました。
私が幼い頃、子供の玩具やお菓子の包み紙に描かれているキャラクターには盗作が非常に多かった。
アメリカに追いつけ、追い越せという気運で、工業技術だけではなく大衆の生活様式まで欧米を真似するようになり、日本としてのオリジナリティがどんどん無くなってきていた時代でした。
学校教育は、戦前にあった徳育が無くなり、知識の詰め込み偏重へ。
その結果、人々の想像力と創造力が欠如していったのです。
しかし一方で、当時の日本には円谷英二氏や岡本太郎氏のような天才もいたのですが。
PR:神戸 パーティー
今の中国は経済力が向上した代わりに、創作力が無くなってきているのではないでしょうか。
戦後の日本にも同じような時代がありました。
私が幼い頃、子供の玩具やお菓子の包み紙に描かれているキャラクターには盗作が非常に多かった。
アメリカに追いつけ、追い越せという気運で、工業技術だけではなく大衆の生活様式まで欧米を真似するようになり、日本としてのオリジナリティがどんどん無くなってきていた時代でした。
学校教育は、戦前にあった徳育が無くなり、知識の詰め込み偏重へ。
その結果、人々の想像力と創造力が欠如していったのです。
しかし一方で、当時の日本には円谷英二氏や岡本太郎氏のような天才もいたのですが。
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posted by takahiro at 12:14| Comment(0)
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2010年03月12日
捕鯨問題は主観レベル
シー・シェパードの不法行為が、連日マスコミにおいて取り沙汰されています。
私自身は鯨の肉も家畜類の肉も、もともとそれほど積極的に食べるほうではないので、鯨を食べられなくなっても直接の被害はありません。
しかし、反捕鯨の理由がどうも異文化国に対する価値観の押し付けのようであるように感じて仕方がありません。
欧米人が捕鯨に反対するのは「家畜類と比べて、鯨は知能が高いので残酷である」という理由です。
それに対して日本人は「食物連鎖を否定するのか」「なぜ知能が高いと残酷で、知能が低いと食べて良いのか」と反論しています。
豚の知能が意外と高いことを、彼らは知っているのでしょうか。
IQいくら以上で線を引くのでしょうか。
私の年代の者が子供の頃は、日本では牛肉は高級食材であり、一般家庭の食卓に出てくる肉といえば鶏と豚ぐらいでした。
だから、あの頃の私の牛に対するイメージは「僕たちに牛乳を飲ませてくれる、やさしいウシさん」でした。
たまに肉屋へ行って牛肉が売られているのを見ると、鶏肉や豚肉とは違うあのシマ模様に何とも言えない違和感を覚えて、「どうして、やさしいウシさんを食べるのだろう?」と子供なりの思考で疑問を抱いていたものです。
価値観とはそんなもので、あくまでも主観であり、他人に押し付けるものではありません。
植物だって生きています。
私は、植物にも感情があると考えています。
「植物には感情があるのか」
http://blog.yahoo.co.jp/ojirou_kannon/37788292.html
私たちはすべて、生きているものを食べています。
このことは客観的な事実であり、価値観レベル、主観レベルではありません。
地球上の食物連鎖の中で、唯一、他の動物に殺されて食べられる必要の無い生物が人間です。
私たちは誰でもが他の生物の命をいただいて生きているのですから、そういうことに対して感謝の気持ちを持つことのほうが大切なのではないでしょうか。
感謝の気持ちを持つことができたならば、人類は必要以上に動物を殺すことも、森林を伐採することも、野の花を摘み取ることもなくなるでしょう。
私自身は鯨の肉も家畜類の肉も、もともとそれほど積極的に食べるほうではないので、鯨を食べられなくなっても直接の被害はありません。
しかし、反捕鯨の理由がどうも異文化国に対する価値観の押し付けのようであるように感じて仕方がありません。
欧米人が捕鯨に反対するのは「家畜類と比べて、鯨は知能が高いので残酷である」という理由です。
それに対して日本人は「食物連鎖を否定するのか」「なぜ知能が高いと残酷で、知能が低いと食べて良いのか」と反論しています。
豚の知能が意外と高いことを、彼らは知っているのでしょうか。
IQいくら以上で線を引くのでしょうか。
私の年代の者が子供の頃は、日本では牛肉は高級食材であり、一般家庭の食卓に出てくる肉といえば鶏と豚ぐらいでした。
だから、あの頃の私の牛に対するイメージは「僕たちに牛乳を飲ませてくれる、やさしいウシさん」でした。
たまに肉屋へ行って牛肉が売られているのを見ると、鶏肉や豚肉とは違うあのシマ模様に何とも言えない違和感を覚えて、「どうして、やさしいウシさんを食べるのだろう?」と子供なりの思考で疑問を抱いていたものです。
価値観とはそんなもので、あくまでも主観であり、他人に押し付けるものではありません。
植物だって生きています。
私は、植物にも感情があると考えています。
「植物には感情があるのか」
http://blog.yahoo.co.jp/ojirou_kannon/37788292.html
私たちはすべて、生きているものを食べています。
このことは客観的な事実であり、価値観レベル、主観レベルではありません。
地球上の食物連鎖の中で、唯一、他の動物に殺されて食べられる必要の無い生物が人間です。
私たちは誰でもが他の生物の命をいただいて生きているのですから、そういうことに対して感謝の気持ちを持つことのほうが大切なのではないでしょうか。
感謝の気持ちを持つことができたならば、人類は必要以上に動物を殺すことも、森林を伐採することも、野の花を摘み取ることもなくなるでしょう。
posted by takahiro at 23:30| Comment(1)
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2010年01月31日
お金が一番偉い。
世界の雇用情勢が深刻です。仕事が無くて生活に困っている人が増えています。
総務省が1月29日に発表した2009年平均の日本の完全失業率は5.1%。
アメリカやEUは更に深刻で、失業率は10%もあります。
先進国と言われている国の人々が生活に困っている理由は、お金を稼ぐ事が出来ないこと。ハイチの人々が今生活に困っている理由とは根本的に違います。
衣食住という生活物資の供給量は足りているのに、衣食住に困る人が増えるのが資本主義経済社会の「不況」という現象です。
私たちの住む社会は、人間よりもお金が一番偉い。
売れ残った大量の生活物資は困っている人々に分配されるのではなく廃棄されてしまう、というおかしな社会なのです。
誰もが衣食住足りて安心して暮らせる社会を創ることは、実に簡単なことです。
そのために高度な新しい技術の開発など一切必要ありません。
昔の人々が持っていた精神文化と、現代科学技術の良いところだけを取り入れた社会にすればいいのです。
そんな簡単なことを実行するだけで、もうアセンションなのに、それがなかなか出来ないのが今の地球人。
総務省が1月29日に発表した2009年平均の日本の完全失業率は5.1%。
アメリカやEUは更に深刻で、失業率は10%もあります。
先進国と言われている国の人々が生活に困っている理由は、お金を稼ぐ事が出来ないこと。ハイチの人々が今生活に困っている理由とは根本的に違います。
衣食住という生活物資の供給量は足りているのに、衣食住に困る人が増えるのが資本主義経済社会の「不況」という現象です。
私たちの住む社会は、人間よりもお金が一番偉い。
売れ残った大量の生活物資は困っている人々に分配されるのではなく廃棄されてしまう、というおかしな社会なのです。
誰もが衣食住足りて安心して暮らせる社会を創ることは、実に簡単なことです。
そのために高度な新しい技術の開発など一切必要ありません。
昔の人々が持っていた精神文化と、現代科学技術の良いところだけを取り入れた社会にすればいいのです。
そんな簡単なことを実行するだけで、もうアセンションなのに、それがなかなか出来ないのが今の地球人。
posted by takahiro at 21:33| Comment(4)
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2010年01月06日
大和の国、日本に二大政党制は馴染まない
一部の権力者層などを除いて、昔から日本人は、二つのものを戦わせることを好まない民族でした。
したがって、過去に自民党政権が様々な批判を浴びながらも長期に存続できた事からも言えるように、今後も日本には二大政党制は定着しないのではないかと私は思います。
昔から日本人は、お祭りで隣の部落と綱引きなどをやって、勝った負けたとはしゃいで遊ぶような事は好きでした。
また、高校野球のように都道府県対抗で楽しむようなことが好きです。
それは共同体愛に基づくものですが、自分たちの共同体を「日本」という大きな括りで考えるときには、やはりその中で分裂を好まないのが日本人なのでしょう。
それは日本人の「和」の心の表れなのではないかと思います。
(やがて、地球全体をひとつの共同体と考えるもっと大きな和の心、すなわち真の「大和」の心が日本人には育ってくるものと私は信じております。)
もし今度の参議院選挙で民主党が過半数の議席を取るようなことがあれば、おそらく自民党は内部分裂して小政党になるのではないかと思います。
そうすると民主党政権が長期に続くということになり、選挙は民主党の信任投票的な機能になります。
国民の大きな期待によって誕生した民主党政権ではありますが、私たち国民には長期単独政権の弊害を防ぐ方法を考えておく責任があります。
もし民主党が良くない方向へ暴走を始めたら、有権者はすぐに小政党に投票して民主党の過半数割れを起こさせるぐらいの気構えが必要です。
以前に書いたように、私は基本的に政党不要論者です。
http://yaei.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-de5e.html
ただし現実問題として、政治家は政党に属していなければ何も出来ない、選挙にも勝てないという実情があります。
したがって、民主党政権を牽制するための機能として、これからフレッシュな小政党が誕生してくることを期待します。
自民党や民主党から離脱した議員が作る政党もあると思いますが、できれば既成の政治概念にとらわれず、しがらみが少なく、大和の心が反映され、国民の声が真に生かされる新政党の誕生を望みます。
したがって、過去に自民党政権が様々な批判を浴びながらも長期に存続できた事からも言えるように、今後も日本には二大政党制は定着しないのではないかと私は思います。
昔から日本人は、お祭りで隣の部落と綱引きなどをやって、勝った負けたとはしゃいで遊ぶような事は好きでした。
また、高校野球のように都道府県対抗で楽しむようなことが好きです。
それは共同体愛に基づくものですが、自分たちの共同体を「日本」という大きな括りで考えるときには、やはりその中で分裂を好まないのが日本人なのでしょう。
それは日本人の「和」の心の表れなのではないかと思います。
(やがて、地球全体をひとつの共同体と考えるもっと大きな和の心、すなわち真の「大和」の心が日本人には育ってくるものと私は信じております。)
もし今度の参議院選挙で民主党が過半数の議席を取るようなことがあれば、おそらく自民党は内部分裂して小政党になるのではないかと思います。
そうすると民主党政権が長期に続くということになり、選挙は民主党の信任投票的な機能になります。
国民の大きな期待によって誕生した民主党政権ではありますが、私たち国民には長期単独政権の弊害を防ぐ方法を考えておく責任があります。
もし民主党が良くない方向へ暴走を始めたら、有権者はすぐに小政党に投票して民主党の過半数割れを起こさせるぐらいの気構えが必要です。
以前に書いたように、私は基本的に政党不要論者です。
http://yaei.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-de5e.html
ただし現実問題として、政治家は政党に属していなければ何も出来ない、選挙にも勝てないという実情があります。
したがって、民主党政権を牽制するための機能として、これからフレッシュな小政党が誕生してくることを期待します。
自民党や民主党から離脱した議員が作る政党もあると思いますが、できれば既成の政治概念にとらわれず、しがらみが少なく、大和の心が反映され、国民の声が真に生かされる新政党の誕生を望みます。
posted by takahiro at 18:04| Comment(1)
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2009年10月02日
地方に住む人々の“日本”に対する意識
9月30日の新刊で、中山康直さんと中丸薫さんの共著で、「うれしうれしで超えよう 2012年の銀河パーティ 」という題の本が発売されています。
この本はアセンションがテーマ。中山康直さんと中丸薫さんの対話形式で編集されています。
アセンションという時期において、日本という国、そして日本文化の重要性が言及されています。
▼「うれしうれしで超えよう 2012年の銀河パーティ」 中山康直、中丸薫 共著
http://www.yaei-sakura.net/lecturer/y_nakaya2.html
私が近頃感じていることですが、地方に住んでいる人よりも、都会に住んでいる人のほうが、日本という国を愛している人が多いと思います。
地方へ行くほど、自分が今住んでいる土地が好きではない。そして、日本よりも欧米に憧れているような人が多いと思います。
都会の人々のほうが海外の文化や外国人と交流する機会は多いはずで、また地方のほうが日本の伝統文化を多く残しているはずなのに何故かな、と私はずっと考えていました。
その理由のひとつは、今の農村というものが、古き良き日本の農村とは全然違うものになってしまっているからではないかと思います
もちろん地域によって差があると思いますが、戦後、多くの農村で昔の良い部分が骨抜きになってしまったのではないでしょうか。
今の農村が昔と何が変わったのかというと、貨幣経済化と核家族化です。
なんでもお金でやりとりをするのではなく、助け合いとか、お裾分けとか、そういう血の通った人間関係で成り立っていたのが昔の農村社会でした
しかし、貨幣経済化によって農業は経済的に儲からず苦労だけが多い職業となってしまい、その結果、戦後の農村は核家族化が進行しました。
農作業をして暮らしていくためには、核家族よりも大家族のほうがいい。核家族化は、農作業の継続自体を難しいものとし、農村社会に悪循環を起こしました。
日本の格差社会が広がって、今の「地方」は疲弊しています。
そのために、地方に住んでいる人々は頑張りすぎていて、昔と比べて、人間関係もぎくしゃくしたものになってしまっている。
このような農村の変化が、古い日本の体質は良くないという間違った解釈を現代の「地方」に住む人々に与えてしまっているのではないでしょうか。
これは、やはりアメリカの占領政策によるところが大きいでしょう。
民主党政権の政策で農業支援が掲げられています。これは日本の食糧自給率を上げるためには良いでしょう。
ただし、古き良き日本の農村を取り戻すためには、核家族化の解消を含め、人間関係が変わらなければいけません。
この本はアセンションがテーマ。中山康直さんと中丸薫さんの対話形式で編集されています。
アセンションという時期において、日本という国、そして日本文化の重要性が言及されています。
▼「うれしうれしで超えよう 2012年の銀河パーティ」 中山康直、中丸薫 共著
http://www.yaei-sakura.net/lecturer/y_nakaya2.html
私が近頃感じていることですが、地方に住んでいる人よりも、都会に住んでいる人のほうが、日本という国を愛している人が多いと思います。
地方へ行くほど、自分が今住んでいる土地が好きではない。そして、日本よりも欧米に憧れているような人が多いと思います。
都会の人々のほうが海外の文化や外国人と交流する機会は多いはずで、また地方のほうが日本の伝統文化を多く残しているはずなのに何故かな、と私はずっと考えていました。
その理由のひとつは、今の農村というものが、古き良き日本の農村とは全然違うものになってしまっているからではないかと思います
もちろん地域によって差があると思いますが、戦後、多くの農村で昔の良い部分が骨抜きになってしまったのではないでしょうか。
今の農村が昔と何が変わったのかというと、貨幣経済化と核家族化です。
なんでもお金でやりとりをするのではなく、助け合いとか、お裾分けとか、そういう血の通った人間関係で成り立っていたのが昔の農村社会でした
しかし、貨幣経済化によって農業は経済的に儲からず苦労だけが多い職業となってしまい、その結果、戦後の農村は核家族化が進行しました。
農作業をして暮らしていくためには、核家族よりも大家族のほうがいい。核家族化は、農作業の継続自体を難しいものとし、農村社会に悪循環を起こしました。
日本の格差社会が広がって、今の「地方」は疲弊しています。
そのために、地方に住んでいる人々は頑張りすぎていて、昔と比べて、人間関係もぎくしゃくしたものになってしまっている。
このような農村の変化が、古い日本の体質は良くないという間違った解釈を現代の「地方」に住む人々に与えてしまっているのではないでしょうか。
これは、やはりアメリカの占領政策によるところが大きいでしょう。
民主党政権の政策で農業支援が掲げられています。これは日本の食糧自給率を上げるためには良いでしょう。
ただし、古き良き日本の農村を取り戻すためには、核家族化の解消を含め、人間関係が変わらなければいけません。
posted by takahiro at 14:34| Comment(0)
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2009年09月01日
酒井法子騒動と、人を裁くこと
覚せい剤取締法違反で起訴された、タレントの酒井法子。
マスコミが仕掛けた今回の大騒動の中で、酒井容疑者が“捨て子”だったことが報じられました。
報道によると、酒井は福岡県内で生まれたが、その父は暴力団組員。最初の妻との間に酒井をもうけた後、離婚。
実母は若い男と駆け落ちし、乳飲み子だった酒井は父親の実家である佐賀県内の寺に捨てられる。
その後、父の妹にあたる叔母夫婦に預けられて埼玉・狭山市で過ごしたといいます。
実は、私が身近に付き合っている人の中に、彼女と非常に似ている生い立ちを持っている人がおります。
その人は心に深い傷を抱えたままこれまでの人生を送ってきており、また性格的に非常にピュアであるだけに様々な誘惑に乗りやすいタイプでもあるので、この話は他人事ではないという印象があるのです。
それにしても、酒井法子に限らず、事件を起こす者に複雑な家庭環境が見えてくることが多い。
一人の人間の人格を形成する要因としては、様々なものがあると思いますが、その中でも、子供時代の家庭環境は非常に大きな要因となります。
特に、小学校低学年ぐらいまでの時期の家庭環境は、その人の基本的な人格、そして体質までも形成してしまう場合があり、その後の人生に長く影響してくると言えます。
子供時代にどんな事情があったにせよ、もう大人なのだから、それなりの思慮分別が出来なければけしからん、と主張される方は多いと思います。
でも、もしあなたが親に見離された子供だったとしたら、それでも自分は思慮分別のある大人に成長できたと言い切れるでしょうか。
身体の傷と違い、心の中の傷というものは他人の想像以上に根深く、人の短い一生の、たった数十年の期間で自力でたやすく解消できるものではないことが多いのです。
そういう人々が、心の隙間を埋めるために走りやすい行為。・・・ギャンブル、浪費、過食、新興宗教、反社会的な活動、アルコール、そして麻薬。
タレントになりたい願望も、心の隙間から出てくることが多いものです。
悪は罰せられなければいけないと言いますが、赤ん坊の時から極悪人という人はおりません。
社会的に阻害されたとき、経済的に窮地に追い込まれたとき、誰でもが犯罪者になる可能性があるのです。
人間が人間を裁くということは、非常に難しいことです。
だから私は、死刑廃止論者なのです。
刑事事件の裁判でよく争点になるのが「心神耗弱」です。
刑法は、心神喪失や心神耗弱の状態にあって、通常人の判断能力や自己抑制能力が著しく劣った者と認められる場合、完全な責任能力が無いものとされ刑が減軽されることになっています。
しかし、常識的に考えて、正常な判断能力や自己抑制能力を持っていて、殺人を犯す者などいるでしょうか。
もし、そんな殺人犯がいるとすれば、逆にその犯行動機にはよほどやむをえない事情があったに違いありません。
例えば、国家の命令で兵役に駆り出され、敵国の兵士を殺したような場合がこれに当たるでしょう。
犯罪の背景には、犯罪を犯した者の精神活動に影響を与えてきた多くの外的要因があります。
海外へ目を向ければ、犯罪やテロの原因が貧困問題と関係していることが非常に多いです。
したがって、もし悪を裁くというのならば、容疑者本人だけではなく、その者に影響を与えてきた周囲の人々や、社会も同時に裁かれなければ不条理な裁きになります。
死刑を廃止すれば凶悪犯罪が増えるといいますが、死刑のある日本で、凶悪犯罪が増えているのも現実です。
スピリチュアルカウンセラーの江原啓之氏は、人が衝動的に何かを起こしてしまう場合、憑依が影響していることがあるといいます。
自分が犯してしまった罪の大きさを充分に認識し悔いることのないうちに、刑によって強制的に命を絶たれてしまった人間の魂は、社会への恨みをもったまま未浄化霊になるといいます。
江原氏は、死刑は未浄化霊を増やすだけであるので、凶悪犯罪を減らそうとするならば、日本は終身刑を設けて死刑を廃止すべきだと言及しています。
私は犯罪者を擁護して無罪放免にすれば良いと考えているわけではありません。
無罪放免にしてしまえば、その人が学びを得て、人間として成長する機会が失われてしまいます。
生きるということ自体が大変な苦労を伴うことです。人は生きて苦労をすることによって、霊性を向上させていくのです。
罪を犯した者が生きて反省し、生きて自らの罪をあがなうということも、必要な考え方なのではないでしょうか。
やしろたかひろ
マスコミが仕掛けた今回の大騒動の中で、酒井容疑者が“捨て子”だったことが報じられました。
報道によると、酒井は福岡県内で生まれたが、その父は暴力団組員。最初の妻との間に酒井をもうけた後、離婚。
実母は若い男と駆け落ちし、乳飲み子だった酒井は父親の実家である佐賀県内の寺に捨てられる。
その後、父の妹にあたる叔母夫婦に預けられて埼玉・狭山市で過ごしたといいます。
実は、私が身近に付き合っている人の中に、彼女と非常に似ている生い立ちを持っている人がおります。
その人は心に深い傷を抱えたままこれまでの人生を送ってきており、また性格的に非常にピュアであるだけに様々な誘惑に乗りやすいタイプでもあるので、この話は他人事ではないという印象があるのです。
それにしても、酒井法子に限らず、事件を起こす者に複雑な家庭環境が見えてくることが多い。
一人の人間の人格を形成する要因としては、様々なものがあると思いますが、その中でも、子供時代の家庭環境は非常に大きな要因となります。
特に、小学校低学年ぐらいまでの時期の家庭環境は、その人の基本的な人格、そして体質までも形成してしまう場合があり、その後の人生に長く影響してくると言えます。
子供時代にどんな事情があったにせよ、もう大人なのだから、それなりの思慮分別が出来なければけしからん、と主張される方は多いと思います。
でも、もしあなたが親に見離された子供だったとしたら、それでも自分は思慮分別のある大人に成長できたと言い切れるでしょうか。
身体の傷と違い、心の中の傷というものは他人の想像以上に根深く、人の短い一生の、たった数十年の期間で自力でたやすく解消できるものではないことが多いのです。
そういう人々が、心の隙間を埋めるために走りやすい行為。・・・ギャンブル、浪費、過食、新興宗教、反社会的な活動、アルコール、そして麻薬。
タレントになりたい願望も、心の隙間から出てくることが多いものです。
悪は罰せられなければいけないと言いますが、赤ん坊の時から極悪人という人はおりません。
社会的に阻害されたとき、経済的に窮地に追い込まれたとき、誰でもが犯罪者になる可能性があるのです。
人間が人間を裁くということは、非常に難しいことです。
だから私は、死刑廃止論者なのです。
刑事事件の裁判でよく争点になるのが「心神耗弱」です。
刑法は、心神喪失や心神耗弱の状態にあって、通常人の判断能力や自己抑制能力が著しく劣った者と認められる場合、完全な責任能力が無いものとされ刑が減軽されることになっています。
しかし、常識的に考えて、正常な判断能力や自己抑制能力を持っていて、殺人を犯す者などいるでしょうか。
もし、そんな殺人犯がいるとすれば、逆にその犯行動機にはよほどやむをえない事情があったに違いありません。
例えば、国家の命令で兵役に駆り出され、敵国の兵士を殺したような場合がこれに当たるでしょう。
犯罪の背景には、犯罪を犯した者の精神活動に影響を与えてきた多くの外的要因があります。
海外へ目を向ければ、犯罪やテロの原因が貧困問題と関係していることが非常に多いです。
したがって、もし悪を裁くというのならば、容疑者本人だけではなく、その者に影響を与えてきた周囲の人々や、社会も同時に裁かれなければ不条理な裁きになります。
死刑を廃止すれば凶悪犯罪が増えるといいますが、死刑のある日本で、凶悪犯罪が増えているのも現実です。
スピリチュアルカウンセラーの江原啓之氏は、人が衝動的に何かを起こしてしまう場合、憑依が影響していることがあるといいます。
自分が犯してしまった罪の大きさを充分に認識し悔いることのないうちに、刑によって強制的に命を絶たれてしまった人間の魂は、社会への恨みをもったまま未浄化霊になるといいます。
江原氏は、死刑は未浄化霊を増やすだけであるので、凶悪犯罪を減らそうとするならば、日本は終身刑を設けて死刑を廃止すべきだと言及しています。
私は犯罪者を擁護して無罪放免にすれば良いと考えているわけではありません。
無罪放免にしてしまえば、その人が学びを得て、人間として成長する機会が失われてしまいます。
生きるということ自体が大変な苦労を伴うことです。人は生きて苦労をすることによって、霊性を向上させていくのです。
罪を犯した者が生きて反省し、生きて自らの罪をあがなうということも、必要な考え方なのではないでしょうか。
やしろたかひろ
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posted by takahiro at 14:57| Comment(0)
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