「20世紀少年」という映画が、海外にも波及して話題になっています。
私はまだその映画を見ていませんが、少し前にそのストーリーの前半部分だけがテレビで放映されました。
ストーリーの最初の設定は、日本が高度経済成長期のまっただ中だった1960年代。
登場人物たちの年代が私とほぼ同じでした。あの時代の子供たちの服装や、街の風景が実に良く再現されていました。
「ああそうだ。あの頃、自分もあんな野球帽をかぶってランニングシャツ1枚で、冒険や探検といった言葉がピッタリのちょうどあんな風な遊びをしてたな。」と、懐かしさの余り涙が出るほど感激してしまいました。
やがてその場面は一転して1990年代の後半に移ります。まさに現代の風景。
あの頃にはどこにも無かったコンビニエンスストアが出現。
それは見慣れた風景ではあるのですが、あの頃と今とではこんなにも違うのかと、そのコントラストに驚き、何となく寂しい気持ちになります。
そして、「ともだち」という名前の、顔をマスクで覆った得体の知れない独裁者の登場。
それに立ち向かうのは、昔の幼なじみだった、本当の意味での「ともだち」たち。
私は、ああ、これは時代風刺だ、と思いました。
現代は、本当の「ともだち」という概念が無くなってしまった時代なのではないか?
ぼくたちのあの頃、血縁関係がなくても、となり近所に住む人たちはすべて「ともだち」でした。
子供たちも全員、自宅の近所にどんな人が住んでいるのかを、よく知っていました。
そして、お隣どうしで醤油や味噌の貸し借りをしたり。
ところが今は、ややもすれば隣にどんな顔をした人が住んでいるのかも知らないという時代。
顔と名前をほぼ知っているのは、職場の同僚と趣味のサークル仲間ぐらい。
その中に、本当の「ともだち」と言える人は何人ぐらいいるだろうか?
その職場を辞めてしまったら、そのサークルを辞めてしまったら、そこで縁が切れてしまうような人間関係ばかりなのではないだろうか?
今はどこを見ても、「あいつの性格が嫌いだ」「何となく気が合わない」と言って、他人と仲良く出来ない人間が多すぎる。
現代における「ともだち」という言葉のイメージは、やはり顔がマスクで覆われた得体の知れないもの。
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posted by takahiro at 00:00|
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現代社会を考える