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2014年07月17日

ブラジルW杯で浮上した人類の課題

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ブラジルは、名目GDP世界第7位(2013年)という経済大国になったが、一部の権力者と裕福層だけが富を独占する状態が続いている。
この問題が原因となって、ブラジルでは、サッカー・ワールドカップ(W杯)の開催反対を訴えるデモが相次いだ。

この大会の準決勝で、ドイツに歴史的な大敗を喫したブラジル。
試合終了後には肩を落とすブラジル代表選手に罵声を浴びせるブラジル人が目立った。
のパブリックビューイング会場ではサポーター同士が衝突、観戦者が逃げ出し、治安部隊が催涙弾で鎮圧する騒ぎも。

準々決勝の試合中にブラジルのエース・ネイマールに脊椎骨折を負わせたことでコロンビア・DFスニガに非難が殺到し、ネット上では殺害予告まで出る事態に。
コロンビア・サッカー連盟は、DFスニガから自身と家族の保護について相談を受け、外務省に保護を要請した。

[ニュース報道より]

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今回のブラジルで起きた出来事は、人類が非常に長い間抱えてきた課題を大きく浮上させた出来事であったと言えるでしょう。

「世界の人口の5分の1が資源の5分の4を消費している。恵まれた少数が無意識に浪費しなければ、すべての人にいきわたるだけ充分にあるのだよ。」
(ニール・ドナルド・ウォルシュ著「神との対話」より)

精神的価値観よりも物質的価値観が重んじられる社会では、競争に勝って、他人よりも多く富を取ることが人生の目的となっています。
より多く取れる者が優れた人であり、多く取れない者は脱落者であるとされています。
そのような価値観は、強い者が世界を植民地化し、その奴隷たちにコカインを与えて長時間の強制労働をさせ搾取を続けることを正当化しました。

いつしか、スポーツがそのような社会的な課題を象徴するものとなりました。
世界の貧しい人々は、我が子をスポーツ選手にすることを救いの道としました。
スポーツと政治、スポーツとナショナリズム、スポーツと貧富の差という関係は、切り離せないものとなっています。
私は、ハングリー精神をスポーツをする人の必須条件としてはいけないと考えます。

「映画俳優やプロスポーツ選手が巨万のギャラをもらうのに、ヒーラーや精神世界に携わる者は無償で働けという風潮がある。
しかしそれは逆で、本来人を癒したり、気づきを与えたりする人間こそが豊かになっていくべきだ。
それ以外にも母親業や、愛を与える者たちにも多くのギャラが必要だ。」
(ニール氏の意見)


暗い話題の多かった今回のサッカーW杯ブラジル大会の中で、ひとつの光明がありました。

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米ブラジルで開催中のサッカー・ワールドカップ(W杯)で、日本代表の試合後に、日本のサポーターが観客席のごみ拾いをしたことをたたえ、リオデジャネイロ州政府は11日、サポーター代表として、駐リオ日本総領事館などを表彰した。

W杯の試合が行われてきた各地では、負けたチームのサポーターらがごみを散らかして帰る様子が目立ち、五輪を控えたリオでは、環境浄化対策が検討されている。

日本のサポーターのごみ拾いがインターネットや各国のメディアで話題になったのは、レシフェで6月14日に行われた初戦のコートジボワール戦。客席を日本代表のユニホームと同じ色に染めるために使った青いごみ袋に、数百人のサポーターが飲食物の包装紙などを入れていった。

ブラジル地元紙はそうした行為を「(日本代表は)敗北したが、応援団のカリスマ性はブラジル人の心をつかんだ」と報道するなど、称賛の声が上がった。日本サポーターのごみ拾いは1998年のフランス大会から話題となっていた。

[2014.7.12 MSN産経ニュース]

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これこそが、人生がときめく片付けの魔法。
これからの世界は日本人が引っ張って行こう!

(やしろたかひろ)

posted by takahiro at 16:36| Comment(0) | 現代社会を考える

2014年07月13日

地球学校の思いやりワーク

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今日は、スピリチュアルマニアの人が、ついやりがちなコミュニケーションについて。

「受け入れる」
「手放す」
「味わう」
「感じる」

これらの言葉は、スピリチュアルの分野でよく使われる言葉です。

人生哲学として、スピリチュアリズムとして、不特定多数に対してメッセージをする場合には、これらの言葉が相手を感動させることがあります。
精神性が高度に進化した惑星の人々は、このような思考や感覚が日常的に当たり前のように身に付いていて、私たちもそのような精神性を目指すべきだと思います。
したがって、私もこのブログの中で、これらの言葉をよく使ってきました。

ただし、私たちが親しい友人や家族と1対1で会話をする時には、このような言葉を多用することは控えたほうが良いと思うのです。
私たちの現実は「どうしても受け入れることが出来ない」「諦められない」「味わいたくない」「感じられない」という感情を持つことのほうが多いのであり、そういう場合に「受け入れなさい」「手放しなさい」と他人から言われたら、それは思いやりの無い冷酷な言葉として受け取られてしまうからです。

私自身、もし自分が何か困難な問題を抱えて悩んでいる時に、他人から「受け入れなさい」「感じなさい」なんて言われたとしたら、「何も判らないくせに無責任な」と腹を立ててしまうかもしれません。
腹を立てている時に「私ならすべてを受け入れることが出来る」「私なら感じることが出来る」なんて言って返されたら、もう、「何様だ!」と喧嘩になってしまいますね。

おそらく、精神性が高度に進化した惑星の人々には、「思いやり」という言葉すら無いのではないでしょうか。それは、個々が自立しているので、いちいち他人から思いやられる必要が無いからです。
しかし、私は、地球人のように進化が発展途上にあるということも必要なプロセスなのであり、地球学校の目的から言えば、「思いやり」という言葉の意味を知り、「思いやり」を実践することも必要なのではないかと思うのです。

したがって、1対1のコミュニケーションでは、
「受け入れなさい」という代わりに、相手がそれを拒絶しなければならない理由を具体的に理解してあげて、現実的な解決策を一緒に考えてあげる。
「手放しなさい」という代わりに、相手がそれを諦められない理由を具体的に理解してあげて、現実的な解決策を一緒に考えてあげる。
……結構大変なやり取りになりますが、それが私たち地球人に与えられている思いやりワークであると思うのです。

他人からそのような思いやりを受けた人は、今度は自分が他人を思いやることが出来るようになります。
それは、人間の不完全さを認めるということです。自分の弱さ、不完全さを認めることの出来ない人は、他人に対して寛容になることが出来ません。
自分と相手が互いに不完全であるがゆえに、思いやりワークの次の段階としては、どこまでやるか、どこで妥協するかという決断のワークが待っています。
これは、文科省が推奨している倫理や道徳とは別次元の話です。決してかっこよくなくていい。どこまで人間臭く成れるかの話です。

世界をどうする、地球環境をどうするというマクロな思考も大切です。
しかし、目の前に居る人とどう相対していくかという思考は、自分自身を知る事と直結しており、まずこちらが基本にならなければいけないでしょう。
人類は人間関係の中で成長し、次の進化を遂げることが出来るのだと思います。

(やしろたかひろ)

関連記事
*スピリチュアル的な視点で理想的な生活とは?
http://iyasaka.saloon.jp/article/71310361.html

タグ:生きること
posted by takahiro at 01:13| Comment(0) | 心身の健康

2014年07月04日

集団的自衛権にフォーカスすると思考が行き詰ります

今日は個人的な話から始めますが、2012年から今年にかけて、私にとって「弛緩」と「開放」の波が起きました。
昨年の秋頃から「片付ける」(人生や過去にかたをつけること)というワードにフォーカスしていたところ、このたび遂に大きな生活の変化を体験しました。それは、先日にフェイスブックでカミングアウトさせていただいた通りです。
この件については、出版を目的としないノンフィクション小説を書き上げて関係者に配布することが、私の最後のワークになりそうです。
今、私の心の中では、これまで自分が背負ってきた大きなものを手放したことによる喪失感のような感傷と、苦労が無くなったことによる安堵感や静寂感が同時に湧いてきているところです。私にとって、今年はリセットの年になるのかもしれません。

ところが、そういう私の個人的な状況とは反対に、今の世の中は静寂とは程遠く、どんどん緊張しているように思われます。
世の中と言っても、私が感じているのは政治や経済のことではなく、個々の人間、個人のレベルでの緊張を感じるのです。つまり、多くの人が病んでいるということです。
それは最近のニュース報道を見ていても思いますし、またこれは気のせいかも知れませんが、私の周辺では救急車のサイレンの音が以前よりも頻繁に聞こえるようなったような気がするのです。

集団的自衛権の行使容認に関する問題にしても、マスコミの偏った報道や論評の仕方に扇動された個人が集団になって大騒ぎをしているにすぎず、私には「何を今さら」という感覚でしかありません。
憲法第九条という観点から言えば、自衛隊の存在自体が大ごとなのであり、さらに国内に米軍基地があること自体が大ごとであるはすです。それらは明らかに日本が保有している軍隊なのですから。
アメリカが東アジアで戦争を起こせば、当然に日本の国内にある米軍基地は攻撃される標的になります。
現実的な意味で世界の常識を言えば、自衛隊と米軍基地を容認すれば、集団的自衛権は否応なしに自動的に付いてくる話です。

つまり、この問題でデモに参加している人たちは、原子力発電所の建設と稼働を容認して、原発から来る送電線の設置工事に反対しているようなものです。
集団的自衛権の行使容認に反対するならば、その前に自衛隊と米軍基地に反対しなけれぱ本末転倒だと思うのです。
中国が日本を侵略することを計画し、その発表をしているという話もありますから、もしそうなった時に日本は軍隊を使って自衛するのか、あるいは何があっても非武装中立を貫くのか、その2つに1つの選択肢しか無いと思うのです。
いずれにしても、私達が選挙で選んだ政治家たちが判断することですから、基本的にそういうことは、私はなるべく関知せずに政治家に任せたいという思考です。

真の平和とは、憲法第九条がどうだとか、自衛隊のあり方がどうだとか、そんなことよりももっと先にあるものだと思います。
現実に対してただ反対するだけではなく、これから具体的にどのような手法で、どのような手順で、どういう社会を作っていくのかという現実的な思考が私達一人ひとりに求められます。

そのためには、一人ひとりに「弥栄の意識」が必要です。
自分と周りの人々が一緒に繁栄していくためには、どうしたらいいのか。
日本と近隣諸国が一緒に繁栄していくためには、どうしたらいいのか。
もともと日本人は、そういう大人の思考をすることが出来る民族だと思います。

とりあえずは、日本がエネルギーや食糧の供給を海外に頼り、そのために実質的に日本国がアメリカに支配されてしまっている状況から早く脱皮しなければならないでしょう。
安倍首相は農業の振興を政策に掲げていますが、TPP攻勢などによって日本国の自給自足社会化はアメリカからの妨害工作を受けて政治家たちが四苦八苦していますから、政治任せではない私たち庶民レベルでの努力も必要です。
個人や少人数で日本全体を動かすことは出来ませんが、エコビレッジ活動など地域単位のコミュニティを立ち上げていくことは可能です。

私達自身がマスコミの偏向報道に煽られている状況や政治依存から抜け出して、もっと自立して自ら具体的に行動することが先決なのです。

(やしろたかひろ)

posted by takahiro at 21:26| Comment(4) | 現代社会を考える